つけ漁





●つけ漁(つけ)とは
私はつけ漁のすべての工程を体験していないため、説明の正確さに欠けるところもありますがご容赦ください。 また、私が見た場所のつけ漁の方法ですので、他の場所もありますがそこが行っているつけ漁は異なる可能性があります。 つけ漁は流れのほとんどない輪中地域の河川で主に行われる漁で、 長良川河口などにかつて見られた石倉網漁法に理屈が似ており、石倉網漁法はニホンウナギを狙うのに対して、 つけ漁はコイやフナ類などを対象魚としているものです。 その手順から記しますと、 はじめに柳の木などを切りそれを舟(田舟)を使って河川のほぼ中央部に山積みにしていきます。 その木が水面に現れるほど積んだなら、そこに目印として竹の棒を突き立てておきます。 それを1年間放置しておきます。放置期間の間に魚たちがそこを住かなどに利用していると思われます。 次に山積みした木の周囲を地獄網と呼ばれる大きな網で囲み、魚たちを地獄網の中からほぼ出られなくなります。 そして、舟に乗った状態で先の鋭く曲がった棒状のものを使って木を取り除いていく作業になり、 その木は来年のつけ漁を行う場所へ投げ込まれます。 木を取り除く作業は大変重労働で2艘の舟に格1人ずつ乗って約3〜4時間もかかります。 すべての木が取り除けたら地獄網の中に投網を打ちます。 その投網によって取り除くことが出来なかった小さな枝などを排除し、 更に地獄網の籠の中に入りきらない魚たちを舟に次々に上げていきます。 その作業が舟の上から数人で約1〜3時間ほどかかります。

それが終わったら岸へ地獄網を引っ張って行き、籠に入っていない魚を浅い岸で選別します。 そして、魚が大量に入った籠を舟に乗せます。 3艘ほどの舟にコイやフナ類などがその重さで沈みそうになるほど積んで舟着場まで帰ります。 舟着場には地域の方々がその魚たちを別けてもらうため数人が待っていて、 それをもらった方々は正月料理としてその魚を食べるのです。 私も毎年のようにいただいた魚を食べていました。

●私とつけ漁
濃尾平野には伝統的な漁法が非常に多くあります。しかし、それらの漁法を今も行っている方々は非常に減ってきています。 その理由として、淡水魚そのものの減少、入手が困難な伝統的漁具、川魚需要の減少による漁師業の衰退などが考えられます。 そんな現在、つけ漁という1年に1回しか行わない輪中地域(濃尾平野)特有の伝統漁が続いているということを 1993年の秋に偶然知ることが出来ました。その後、文献やその他の資料を調べましたが、 つけ漁が記されているものはほとんど見つけることができませんでした。 そして、年末の1993年12月30日につけ漁をはじめて見に行きました。 私はそれを見て規模の大きさと勇壮さに感動しました。 それから、毎年の大晦日前に見に行くことが私の年間行事の様になっています。 このころは、まだ地域の人達だけが、この漁を知っているだけという感じを受けました。 私はもっと多くの人達にこの漁を見てもらいたいと考え、色々な方々を誘って見ていただくようになりました。 そうしている内に、テレビメディアで紹介してはどうかという話になり、某先生などのおかげで、 1998年度に行われたつけ漁が1999年1月に放送されました。残念ながらこの年は暖冬のためか不漁でした。 しかし、つけ漁の存在が未来まで多くの人達に伝えることが出来たこととして大きな意味を持つことになりました。

●2001年の春
2000年の大晦日前につけ漁は行われませんでした。 それはつけ漁を仕切ってまとめていた方が病気で入退院を繰り返していたからでした。 2001年の春にその方は他界されてしまいました。 輪中という河川に囲まれた1つの島のような土地は、同じ輪中に住む人々が一致団結し、 必然的に生まれるリーダー的な存在によって水害を防いできました。 現在はそうした意識や生活文化は薄れ、 後継リーダーの存在も必要ではなくなりました。 つけ漁は単なる正月に淡水魚を食べるという食文化の他に 輪中という存在があったからこそ、ここまで続いてきたものだと思います。 輪中文化に残存していたリーダーの他界と共に、つけ漁も輪中文化も消えてゆく運命にあると言えるのでしょう。